先日、地元神戸市須磨区の夜間パトロールに参加した。

須磨区内で防犯管理区域を分割し、それぞれの地域の防犯リーダーを先頭に、夜間パトロールを定期的に行っている。

自治会役員の顔も見える、PTA役員の顔も、子供会役員の顔も、警察、消防、教職員の顔も見える。みんなで地域を支えているのだ。

地域社会とは一体なんだろう。
一言でいうことは難しいが、あえて言えば、「繋がり」と言えるのではないだろうか。

精神的、物理的に繋がった「家庭」という最小単位を基礎に、その家庭の近隣における緩やかな繋がりを持った集合体と捉えることができるだろう。

この集合体たる地域社会は色々な要望を持つ。

①安全性 ②独立性 ③共和性 ④愉快性 ⑤利便性 …など、挙げてゆけば限がない。

日本では、行政サービスが世界最高水準レベルであるがゆえ、地域社会が共に力を合わせて要望を勝ち得ようとしなくても、ある程度は充足される。

未成熟の時代においては、地域社会は共に力を合わせなければ、諸々の要望は満たされなかった。

例えば、水害対策の土木作業など、村の若手が駆り出されて協力をして行った。
そうでもしなければ、次の梅雨、台風の時期までに工事は完了しなかったのだ。

今、地域社会の在り方が問われている。

・隣に住んでいる人の顔を見たこともなければ名前さえ知らない。
・朝早く会社に出かけ、夜遅く家路に着く。家ではお風呂と食事と寝るだけ。たまの休みの日も家の中でゴロゴロするか、車で遠くにお出かけ。
・犯罪は警察に任せ、火事は消防に任せ、子供は学校に任せ・・・何でも人任せ。

実際は、このような家庭(特に男性)が殆どだろう。これでも普段は不自由は無い。

しかし、一方、我々が経験した阪神大震災のような地域社会全体に大異変が発生した際、行政は手が回らない。

また女性が夜道を一人で歩いていて危機に遭遇した際なども、その場には行政マンはいない。急場においては、地域社会での協力が必要となるのだ。

かといって、普段が上記のような状態なら、誰が誰かも判らず、協力さえ中々出来ないだろう。誰が指導的立場に成るかでさえ、決定し難いだろう。

神戸市では、各地域に「自治会」と別に「ふれまち」と言われる協議会がある。阪神大震災の時の苦労を教訓に、地域ごとの協力体制を強化する狙いだ。

私も国会議員時代には総務省(以前の自治省)の担当で、全国地域の調査をよく行ったが、神戸市では他地域比、高レベルの協力体制・行事運営が出来ている。

それでも、阪神大震災を経験した当時の防犯リーダーの人の言葉を借りると、地域活動への参加者は減少し、熱意も震災直後とは比べようもない、と。

行政サービスレベルの向上による危機意識の低下、生活形態の複雑化による地域社会との繋がりの劣化。  ・・・無意識、無関心、無責任、そして孤独感・・・

参加型の地域社会の運営は、日本では今後も益々失われてゆくのであろうか。今のまま、大きな変化がない限りは、恐らくそうであろう。

人は字のごとく支えあうもの。そして人間は、人と人の間で生きるもの。普段は、そう感じられなくとも、そうであると認識する必要性があるだろう。

意識さえすれば、そのような地域社会活動は身近な所で、いくらでも見受けられる。参加は誰でもできるのだ。しかし、認識せずに暮していれば、何ら気づくことはない。

個々で生きるより、地域で生きる方が楽しい。便利だ。そして安全だ。その要因を得るために必要な少々の時間と手間を惜しんではいけない。

この不断の努力と認識が、将来の自らの身を助けることにきっとなる。自分のためなのである。自分を守ってくれるものが地域社会なのである。

地域社会の活動に積極的に参加をしよう。

次回に続く…