- 2011.06.10
- 政治・議会
福井県知事の主張
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世の中で、「完全」に安全を保証することなど可能なのだろうか?
無論、人類の叡智を振り絞って、出来うる限りの手立ては打たなければならない。しかし、それで完全かと問われれば、完全とは言い切れないと、答えなければならない。世の中に完全など有り得ないからだ。
叡智を尽くして完全に出来る限り近づけ、何か思わぬ事態が発生したとき、それに対して対応が出来るように、対処方法を明確化し、その訓練をしておくことが大切である。
例えば、地震が発生したときに、絶対に崩壊しないと断言できるビルなど世の中にはない。今も現実問題として、そのようなビル群の中で、人は働いている。
また、どのような武力攻撃にも耐え得るビルなど存在しない。アメリカの世界貿易センタービルにおけるテロの記憶は生々しく残る。
つまり、残念なことであるが、完全に保証のできるものなど、世の中にはないのである。
いま、原子力発電所の安全性についての議論が盛んになされている。
原子力発電施設が多数集中する福井県では、施設の検査が終わり、運転の再開が待たれるものがあるが、県知事が再開に待ったを掛けている。
原子力発電施設は、一年ごとに検査が行われる。つまり待ったを掛けたままなら一年以内に、総ての原子力施設が止まる計算だ。
知事は、国が安全性を保証しないと再開させないとの意見である。この知事の意見、気持ちはよく判るが、果たして正しいのだろうか?
関西の半分の電力が止まり、経済が大混乱するから再開せよとか、国民生活が大混乱するから再会せよとか、そのような理由で言っているのではない。
ここで議論を要することは、危険性の可能性は如何ほどなのか、そもそもその危険性の情報は正しいのか?
その真実の確認を行い、危険性に対する対処策はとられているか、もし未だ補強するべきところがあるのであれ、どのような計画で行うのか。
その点を詳しく調査し、議論することこそが必要である。
しかし、それを行ったうえでも、安全性が完全でなければ運転が再開できないとの意見なのだろうか?先ほど言ったように、どこまで行っても「100%の完全」は、世の中には有り得ない。
このような中で、国が保証するのか、それとも知事が一人で判断しなければならないのか。これこそ、只の責任の擦り付け合いであり、不毛な議論である。
それならば、原子力施設の再開の決定方法を変えるように取り組む方が余程、建設的である。
知事の気持ちもよく判る。県民の命を守らねばならない。しかし、今の議論の問題点は、責任の所在の決め方のみにあると思う。
完全だといって再開をさせるのか、調査の上で完全と恐らく思われるので再開をさせるのか。世の中には、後者しか有り得ない。
言葉による「責任」の所在で、すったもんだする事は、空しいことである。
関西電力の心血を注いだ対処策に、もっと耳を傾けてみてはどうか。
国も県も。